編集長コラム

何のための「農泊」か?体験型農業を活用した、食・農・観光一体型地域振興について考える

文・毛賀澤明宏
「農泊」を取り巻く状況
 近頃、地域づくりの現場で「農泊」という言葉がさかんに使われている。政府・農林水産省が「農泊」推進政策を打ち出し、そのための補助金も多額に用意されている。これを受けて、地域づくりに取組む全国の自治体・集落が、農業体験・食文化体験・農家民泊による暮らし体験などをセットにした「新たな旅行」を受け入れられるように、ソフト面でもハード面でも、整備を進めようとしているのだ。「地方創生」の流れも強く影響している。

 この動きの中で、特にここ2~3年の間、旅行・宿泊・広告代理・情報発信・出版印刷、さらには人材派遣などの大手企業が―場合によっては「農泊」や「地方創生」分野の専門子会社を作って―こうした自治体の動きに刺さり込み、サポートしようと活発に企業活動を展開している。こうしてますます「農泊」が白熱化しているのである(紙幅の関係上触れないが、現在注目を集めている「インバウンド」でも、ほとんど同様のことがいえる)。

 背景には、この10年の間に、都会暮らしの人々の間に驚くほどのスピードで広がった「田舎暮らし」への憧憬がある。また他方で、人口減少から集落「消滅」へ進むと指摘された地方の自治体や住民の危機感もある。

 筆者は以前より、地域づくりには、食・農・観光の一体的な地域振興策が必要だと考えてきた。特に過疎化が進む中山間地の農業集落などでは、さらに「福祉」のモメントも組み込んだ複合的な地域づくりの取組みが不可欠だと考えている。そうした視点からすれば、現状の「農泊」ブームは、ある意味では歓迎するべきものでもあるのだが、しかし、他面で、「このままでは『地方』はますます疲弊するばかりではないか?」と危機感を抱くこともある。

 特に、先に述べたような中央の大手企業が、国の「農泊」補助金や「地方創生」交付金を獲得する(そのための申請をする)こともセットにして、「農泊を軸にした町づくり・村づくり」のプランを提示してくるのに対して、提示されたプランを吟味する視点も不明確なまま、時によっては内容検討をすることもないまま、まるで飛びつくようにそれに乗ってしまう市町村が少なからず存在している。こうした事態を目の当たりにすると、「地方はまた食い荒らされていないか」と、憤怒とも焦燥とも、あるいは諦念ともつかぬものが沸き上がってくるのである。

 もちろん、大手企業の地域サポート事業のすべてを十把一絡にして「地域を疲弊させるものだ」というつもりはない。中には、地域の実情を踏まえ、ある意味ではその地域の人々よりもはるかに真剣に、地域課題に向き合おうとしている人々も確実に存在する。

 しかし、多くの場合が、「農業と触れ合う楽しさ」を求める都会人が多くいることばかりを強調し、そういう都会人を田舎に連れてきて農業体験と農泊をしてもらえば、地域が活性化し、移住定住人口も増える―という、既に手垢の付いたストーリーを繰り返し、「事業計画」と称して宙に浮いた絵空事を吹聴しているだけのように感じてならないのである。

「触れ合う」こと、「触れ合ってもらうこと」
 疑問や違和 感を抱いているのは筆者だけではない。いくつか出席した農泊や農業体験事業に関するシンポジウムなどで、「農泊」を奨める著名なフードライターや旅行ライターと呼ばれる人々が、各地の農業体験イベントに自分が参加して楽しかったこと・感動したことを語り、「こういう体験の場を都会の消費者に提供する機会を多くすれば、観光客も増えるし地域農業も活性化する」―というような話を、実に異口同音にするのを何度も聞いた。

 だが、そのような講演に直続する質疑応答では、決まって必ず、「誰がその受け入れをするのか?」「イベントが楽しかったのは分かったが、あなたはそれをきっかけにその地で農業をする気になったのか?」というような疑問とも批判ともつかぬ意見が会場から噴出するのである。

 こうした講師あるいは彼らを推薦したりする大手企業が、都会の消費者目線・旅行者目線で農業体験や農泊について語る感覚と、地域の農家目線でそれらについて語る感覚とは、完全に乖離しているのではないか?

 消費者・旅行者側の視点からすれば、農業体験や田舎暮らし体験を通じて、非日常の楽しさや感動を感じられれば、ひとまずは、それでハッピー(ラッキー(?))であろう。

 しかし、それを受け入れる農家の側・地域の側からすれば、それはほんの出発点に過ぎず、むしろそこから、継続的に農産物を買ってくれたり、その地を繰り返し訪れ一緒に農作業をしてくれたり、できれば移住してくれたりすることを望んでいるわけである。

 そして、そのような方向にことを進めることが難しく、多くの難問を抱えていることを、地域づくりを目指す農家や地域は熟知しているのである。

感覚の乖離に気付かない理由
 だが、この感覚の乖離には、都会視点の講師や大手企業はなかなか気が付かないようだ。それは、「都会の人はこんなに農業体験を楽しく感じているのに、農家の人はそれに気づかない。自分たちの魅力を自分たちが知らない。マーケットインの視点がないのだ」と、農家や地域の人について考えているからだ。

 確かに、初めて農業体験を受け入れようとしている農家には、自分たちが思いもよらない所に都会の人は魅力を感じるのだということを知ることも大切なことであろう。

 しかし、「農泊」の重要なファクターである農業体験や田舎暮らし体験、農家民泊などは、ここ数年のうちに新たに始まったものではなく、既に10~20年にわたり何度も繰り返し試みられてきたことだ。しかし、一部の成功例を除けば、ほとんどの地域で頭打ち状況になり、継続しきれなくなってきた取組みなのであ る。

 都会の人が喜ぶのは知っている。受け入れ側の自分たちもその時には楽しいことは分かっている。しかし、それを、少しは収益性がある継続可能な事業に成長させていく方法や発展方向性が明確にならないために、次第に受け入れに疲れてしまったというのが偽らざる現状なのである。

農業振興策の欠落した「地域づくり」
 都会の大手企業から発信提案されてくる「農泊」あるいは、農業体験や田舎暮らし体験を組み込んだ観光開発・地域振興のプランは、ほとんどの場合、今述べた、農業や暮らしの体験そのものを、「誰がどのようにして企画運営するのか」「その事業性をいかにして構築するのか」―という核心問題に触れられていない ことが多い。

 先日A町で参考に見せてもらったX旅行会社の「農泊」関連企画書では、地場産食材を利用した提供メニューや、歩いて回る周遊コース、A町の特産の果樹の収穫体験コースなどが例示され、農家民泊を組み込んだセット商品が提案されていた。だが、特産果樹収穫体験を以前より受け入れてきたこの町で、農作業の繁忙期に初心者の世話を焼かなければならないことに伴う困難性や、その割には収益が少ないがゆえに継続する意欲がわかなくなっている現状をどのように打開するかの分析や提案は欠落していた。

 また、別のB村で見た、Y情報関係業社の「農と観光の村づくり」の企画書では、農家が観光客を受け入れ、農作業をしたり田舎暮らしを楽しんだりする領域については、ほとんどすべて、「協力をお願いしたいこと」と称して農家や農業団体に企画運営を丸投げしていた。Y社は、「この村の観光資源を発掘し、つなぎ合わせ、セットにして魅力を引き出して対外的に発信すること」が主要業務で、実際の「観光資源」を作り出すことは、その「地域」の人々の業務領域という線引きがなされているというわけだ。

「コト消費」論の欠陥
 だが、農業体験や食体験・暮らし体験を受け入れる体制をどのようにして構築するかという核心問題を、脇にどけた、あるいはその領域は当該の自治体や農家・農業団体に実は任せっきりの、「農泊」による地域づくりプランなどというものがありうるのだろうか?

 農業体験を受け入れることについて一歩踏み込むならば、これまでの農業経営(産地型とか地産地消型とか)に加えて(あるいはそれに換えて)、新たに体験型農業に踏み出す、経営上の利点や技術上の課題、なにより新たな形の農業を進める主体の大きさや組織形態などについての展望を見出さなければならないだろ う。

 食体験や暮らし体験なども同じことで、誰が、どうやって、いくらぐらいの収益を上げることを目指して(また可能で)、どのような連携を組んで行えばよいのか―というような分析と提案がなければ、実は、それを実現するために何をしなければならないかは明確にはならないのである。

 「農泊による村づくり」とか「食と農と観光による地域づくり」とか言われるものは、「観光資源を掘り起こし、つなげ、セットにして売り出す」ことで進むのではなく、今ある食や農や暮らしを、その地域や集落以外の人々も参加できる形に整備し直し、それを実行する人や組織の育成を進め、一人勝ちしなくてもいいから持続可能な収益性を確保できる「新しい農業集落の形」を生み出していくことそのもののはずなのである。

 農産物直売事業においては既に10数年前より「モノを売るのではなくコトを売れ」という言葉が言われてきた。生産的労働の結果生まれる農産物を売るだけでなく、労働の過程の風土・条件・技術・品質づくり・喜び・悲しみ・歴史などの諸モメントを、モノに込めて売れ、ひいては、過程そのものを農業体験・食体験・加工体験・暮らし体験として、農家や集落の収入の糧として活用していく―という意味で、その言葉は使われてきたのだ。

 それは、農産物をモノとしてやり取りするだけの大量生産大量消費の産地型農業に替わって、農・食・暮らしに関わる時間を共有することでコトを共有する新たな直売型農業の道を切り拓いてきた。そしてその発展が、農業が危機に立つ今、まさに求められている。

 昨今の「農泊」ブームの中では、「モノ消費からコト消費への転換」という言葉がよく使われている。だがここで言われる「コト消費」は先に述べた「コトを売れ」の意味とは大きく異なっているように思う。「モノではなくコトを売れ」は、モノを作る時間や過程を共有する、一緒に「コト」をつくる側から言われているのに対して、「コト消費」という言葉は、時間を共有する「コト」さえも「消費」の対象として「モノ」化して扱っている。「消費」する主体は、本質的に「コト=共有する時間や過程(そこにおける関係性)」の外側に位置付けられているのである。

 「農泊」ブームの中で、消費者・旅行者目線の大手企業などの「地域づくり」提案が、外在的なものになってしまうのは、案外「コト消費」という発想そのものの欠陥の故なのかもしれない。