| 武田 |
今の世の中は、昔に比べると、いじめをしやすい雰囲気―というのがあるのでしょうか。 |
| 北沢 |
今は、子どもたちに均質であること、同じであることを要求される世の中です。ゆったりした状況であればいいですが―。競争原理は教育に大事だという人もいますが、私はそうは思いませんね。例えば、学校そのものの面白さ。昔は、学校に居場所があり、学校があって救われた部分がありました。 |
| 春日 |
長年、教育現場にいて、子どもたちを見てきて感じることは、子どもたちが幼稚になってきた―ということです。自立していかなければいけない、ということで子どもたちには接してきました。私自身もそう思っていましたし、子どもたちもそう感じていた。ところが、最近になると、少し難しい問題にぶつかると「わからない」「どうしたらいい」ということになってしまう。それが家庭でも、学校でもそうなんですね。さらに、気づかない、ということも出てきます。例えば教室で、給食のパン箱の蓋が倒れてしまったとします。見ていると、その蓋を片付ける子も出てきますが、蓋をまたいでいく子も出てきます。また、最近、学童保育の現場の先生に聞いた話ですが、帰る時に、先生が身の回りを片付けましょう、と言うと、子どもがまじめな顔で「これは僕が落としたものじゃない。だから片付けない―」と言ってくるそうです。そういう子どもたちの変化はあります。 |
| 武田 |
自分のことを自分でできない。そういう雰囲気もありますね。 |
| 北沢 |
やはり、家庭の中でのしつけ、想像力の欠如、想像力の訓練不足がありますね。(試験で)1点でも多く、という中で、親もそれに手を貸して過保護になっている中で起きてくることだと思いますね。愛知県で少年たちがホームレスの老人を襲って殺してしまった事件がありましたが、この事件にしても、どこかでホームレスの人が、血が通った自分と同じ人間であること、痛みや悲しみ、いろんな歴史がある人間だということを想像できなくなっている。 |
| 武田 |
家庭で、本来教えなければいけないことがきちんと伝わっていない―。 |
| 北沢 |
経験からいうと、登校拒否になる親の家庭が、平均に比べて、どこか変わっているということはないんです。むしろ、整っている―。家庭にも問題はあるでしょうが、社会そのものがおかしくなっていると思います。例えば、殺されてしまったホームレスの老人は、月7万円で暮らしていかなければならなかったと聞いています。これは、いわば社会からのいじめ、政治からのいじめですね。そういう状態の中で、想像力が鈍感になっている子どもたちが襲いかかっていく―という図式が、どこかで共通しているように感じます。大きな社会全体のいじめのごく一部なのではないか、と。 |
| 武田 |
今は、「ゆとり教育」と言われて重要視されています。でも、なかなか進んでいかない―。 |
| 北沢 |
ゆとりということは、とても大切だと思います。それがなければ学校が成立しないぐらい大切だと。もともと、学校、スクールの語源は「閑暇」です。私の理想は「ゆとりのあるところでないと、学校はそもそも存在できない」ということ。今の社会的状況が、とにかく大きなピラミッド型のものがあって、中学校の時からその準備をしなければいけない、ということがある。学校でやることだらけで、1点でも多くとらなければ先へ進めないようなところにいる中で、学校だけ「ゆとり教育」と言って授業の時間を減らしてみても、結局は今の社会にあてはめていくしかないわけですから、本当の意味の「ゆとり」のところまでいかないと―。本当の意味の「ゆとり」というのは、例えば納得いくまで遊んでみるとか、学んでみる、作ってみる―そういうことをすることを保証するゆとり、なんですね。 |
| 武田 |
春日さんは、子どもたちをモンゴルに連れて行っていますね。そこでどんなことを感じていますか。 |
| 春日 |
まず子どもたちは、モンゴルで全く知らない家でお世話になります。そこで、ものすごい不安を覚えます。言葉も食文化も違う生活の中で生活して、帰って来た子どもたちが共通して言うのは「言葉は通じないけれど心は通じる」ということです。これは大きなことだと思います。自然の大きさにも心を打たれていますが、最も大きく心打たれたのは、やはり人間です。 |
| 北沢 |
子どもたちにとっては、何か夢中になれるもの、仲間と一緒に体を動かせるもの―そういうものは、ものすごく有力な経験だと思いますね。 |
| 春日 |
子どもの活力を育てるために、大人がいろんな方法で手を貸すこと。これが大事なことだと思います。 |
| 北沢 |
いじめは社会現象だということを、まず認識することが大事なことですね。 |