2006年12月16日放送 

北沢康吉さん 春日幸雄さん

子どもたちが喜びを感じる居場所を

シリーズ「アトムの子ども」-いじめを考えるA

一年の世相を表わす漢字として「命」の一字が発表された。何よりも大切なはずの「命」をもう一度見つめ直さなければならない、その重みを訴えなければならない背景には、今年大きく取り上げられたいじめ自殺の問題がある。子どもを取り巻く環境は、年々窮屈になり、ゆとり教育の重要性が叫ばれながら、問題は依然として目の前に立ちはだかったままだ。
今週のいなまいニューススタジオは、先週に引き続き、シリーズアトムの子ども。20年余前から登校拒否をはじめとする教育問題にかかわるのぞみ学園の北沢康吉さん、子どもの自立を促す教育の場を探り続けるパカパカ塾の春日幸雄さんをゲストに迎え、いじめ問題や子どもたちの学びの場について聞く。

気づかない子どもたち
武田 今の世の中は、昔に比べると、いじめをしやすい雰囲気―というのがあるのでしょうか。
北沢 今は、子どもたちに均質であること、同じであることを要求される世の中です。ゆったりした状況であればいいですが―。競争原理は教育に大事だという人もいますが、私はそうは思いませんね。例えば、学校そのものの面白さ。昔は、学校に居場所があり、学校があって救われた部分がありました。
春日 長年、教育現場にいて、子どもたちを見てきて感じることは、子どもたちが幼稚になってきた―ということです。自立していかなければいけない、ということで子どもたちには接してきました。私自身もそう思っていましたし、子どもたちもそう感じていた。ところが、最近になると、少し難しい問題にぶつかると「わからない」「どうしたらいい」ということになってしまう。それが家庭でも、学校でもそうなんですね。さらに、気づかない、ということも出てきます。例えば教室で、給食のパン箱の蓋が倒れてしまったとします。見ていると、その蓋を片付ける子も出てきますが、蓋をまたいでいく子も出てきます。また、最近、学童保育の現場の先生に聞いた話ですが、帰る時に、先生が身の回りを片付けましょう、と言うと、子どもがまじめな顔で「これは僕が落としたものじゃない。だから片付けない―」と言ってくるそうです。そういう子どもたちの変化はあります。
武田 自分のことを自分でできない。そういう雰囲気もありますね。
北沢 やはり、家庭の中でのしつけ、想像力の欠如、想像力の訓練不足がありますね。(試験で)1点でも多く、という中で、親もそれに手を貸して過保護になっている中で起きてくることだと思いますね。愛知県で少年たちがホームレスの老人を襲って殺してしまった事件がありましたが、この事件にしても、どこかでホームレスの人が、血が通った自分と同じ人間であること、痛みや悲しみ、いろんな歴史がある人間だということを想像できなくなっている。
武田 家庭で、本来教えなければいけないことがきちんと伝わっていない―。
北沢 経験からいうと、登校拒否になる親の家庭が、平均に比べて、どこか変わっているということはないんです。むしろ、整っている―。家庭にも問題はあるでしょうが、社会そのものがおかしくなっていると思います。例えば、殺されてしまったホームレスの老人は、月7万円で暮らしていかなければならなかったと聞いています。これは、いわば社会からのいじめ、政治からのいじめですね。そういう状態の中で、想像力が鈍感になっている子どもたちが襲いかかっていく―という図式が、どこかで共通しているように感じます。大きな社会全体のいじめのごく一部なのではないか、と。

「学校」という場所
武田 本来の学校の姿は―。
春日 私は、本来の学校というのは、子どもたちが学校に来て楽しくてしかたがない―そういうふうにしなければいけないと思いますね。ところが、教える中身が多すぎて、それを壊さなければならない状況も出てくる。教員をやっていて、救われるのは、教えていて「わかった。そういうことか」と子どもたちが反応してくれた時なんです。ところが、今は教える内容がとても多いので、本当に「わかった」と言うまでやっていきたくても、不十分だと感じながら次に進まなければならないことがある。そうすると、教員の側にも疲労感が残って、それが蓄積してくるんですね。そういう中では、子どもたちに希望もなくなっていきますね。そこが、学校教育の中で考え直していかなければならない部分だと思います。
北沢 全くそのとおりだと思います。学校ってどういう場所か。学科のことだけだったら家でやればいいんです。学校へ行くということは、仲間と一緒に学ぶ喜び、作る喜び、遊ぶ喜び―。みんなと一緒に経験する喜びなんです。その時、それを保証するにはどうすればいいか。そこに必要なゆとりが、今はなくなっているんですね。しっかりとゆとりがある中で、仲間と一緒に経験したら、今のような陰湿ないじめは起きないのではないかと思いますね。
武田 春日さんが教員時代、馬などの生き物を子どもたちと飼った―というのはどんな思いからですか。
春日 子どもたちに活力をつけさせたい、という気持ちがありました。実際に自分で馬を飼うということは、年中休みがないということです。それを乗り越えていくには、自分をかなりコントロールしていかなければなりません。例えば隣の子が遊びに行っても、自分も行きたくても、馬の世話は休めない。そういう葛藤を乗り越えていくことが大切なんです。そして、馬が起こすいろんなトラブルを友達とどう乗り越えていくか―。そうした経験を通して、子どもに活力を植え付けたいと思ってきました。
北沢 今の子どもたちに活力がない―ということではなくて、いろんなかたちで喜びを感じて生きるような場所があれば、その活力は生かされると思いますね。その活力を邪魔することが多すぎる。子どもも先生も、ゆとりがなさすぎますね。

本当の意味の「ゆとり」
武田 今は、「ゆとり教育」と言われて重要視されています。でも、なかなか進んでいかない―。
北沢 ゆとりということは、とても大切だと思います。それがなければ学校が成立しないぐらい大切だと。もともと、学校、スクールの語源は「閑暇」です。私の理想は「ゆとりのあるところでないと、学校はそもそも存在できない」ということ。今の社会的状況が、とにかく大きなピラミッド型のものがあって、中学校の時からその準備をしなければいけない、ということがある。学校でやることだらけで、1点でも多くとらなければ先へ進めないようなところにいる中で、学校だけ「ゆとり教育」と言って授業の時間を減らしてみても、結局は今の社会にあてはめていくしかないわけですから、本当の意味の「ゆとり」のところまでいかないと―。本当の意味の「ゆとり」というのは、例えば納得いくまで遊んでみるとか、学んでみる、作ってみる―そういうことをすることを保証するゆとり、なんですね。
武田 春日さんは、子どもたちをモンゴルに連れて行っていますね。そこでどんなことを感じていますか。
春日 まず子どもたちは、モンゴルで全く知らない家でお世話になります。そこで、ものすごい不安を覚えます。言葉も食文化も違う生活の中で生活して、帰って来た子どもたちが共通して言うのは「言葉は通じないけれど心は通じる」ということです。これは大きなことだと思います。自然の大きさにも心を打たれていますが、最も大きく心打たれたのは、やはり人間です。
北沢 子どもたちにとっては、何か夢中になれるもの、仲間と一緒に体を動かせるもの―そういうものは、ものすごく有力な経験だと思いますね。
春日 子どもの活力を育てるために、大人がいろんな方法で手を貸すこと。これが大事なことだと思います。
北沢 いじめは社会現象だということを、まず認識することが大事なことですね。

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