| 武田 |
火山峠の伊那市側、現在の富県には、有名な茶屋があったそうですね。 |
| 春日 |
名物おばあさんがいる茶屋があって、井月もよく通っていたようです。旅人に「酒食らえ」とよく言って、酒を出していたと。でも、井月はお金をあまり持っていませんから、つけで飲んでいたようですね。そのおばあさんは字が読めなかったので、井月が控え帳に、お金の絵を書いていたという話です。句を作って、その控え帳に書いて、証文の代わりにした―という話もあったようですね。 |
| 武田 |
富県貝沼あたりには棚田が残っていて、いい風情があります。 |
| 春日 |
例えば富県の福地は、福地の郷とも呼ばれて、水に恵まれた豊かな土地柄です。米どころとして豊かなところですね。棚田には昔、6月ころになると里山から木の枝を切ってきて肥料に使っていました(刈り敷き)。水にも恵まれているし、肥料にできる里山も近くにありますから―。そういう山のことを、昔は「刈り敷き山」と呼んでいて、その言葉は俳句の季語にもありました。 |
| 武田 |
そうした里山が機能しなくなって、棚田も少なくなってくると、俳句の季語も変わってきますね。 |
| 春日 |
そうです。そうやって意味がなくなってしまった季語もたくさんあります。 |
| 武田 |
刈り敷き山や棚田があったころ、井月が生きていたころには当然、化石燃料を使わないわけですから、また違う風景があったでしょう。 |
| 春日 |
循環型の暮らしがありましたね―。春には棚田の土手で蕗を採り、いろんな恵みを利用した時代だったでしょう。田んぼで収穫するだけでなく、土手や山も利用して、遊びの場でもあった。楽しみの場だったと思います。 |
| 武田 |
そうやって収穫しながら、遠く山を眺めて、いい景色を楽しんでいたでしょう。考えてみると、昔の人は、そうした風景に囲まれていることが当たり前で、改めて素晴らしさを感じることがない―という点では、とても贅沢だったと言えるかもしれません。現代に生きる私たちは、こうした風景を目にして、エネルギーをもらえる気がします。 |
| 春日 |
そういうものがだんだん失われてしまいましたね。井月の墓がある美篶の太田窪は、名前のとおり少し窪んでいて、栗もありました。そこで明治18年に辞世の句と言われる『落栗の座を定めるや窪溜り』を詠みました。井月は、上伊那の俳友180人余の句を集めて「余波の水茎」という句集を作りました。その最後にこの句があります。ここが終焉の地、ここで朽ち果ててもいい、という心情があらわれていますね。そこには、井月の短歌『いまは世に拾う人なき落栗の朽ち果てよとや雨の降るらん』も収められています。 |
| 武田 |
地元の人が井月を受け入れるあたたかい気持ちがなければ、井月も30年以上、この地にいなかったでしょう。この風景とともに、その人情をしみじみと感じます。これからも、井月がいたころのような雰囲気を保っていきたいと思いますね。 |
| 春日 |
私自身、そういった人情のある、あたたかみのある里の人を、一人でも多く作って、井月のような人がこの平成の時代でも生きていけるような世に、人に、していきたいと思いますね。 |