2006年11月18日放送 

春日愚良子さん

漂泊の俳人井上井月が歩いた道A

天竜川と中央アルプスと人情と(駒ヶ根市東伊那を歩く)

井上井月は、終焉の地として、この伊那谷を選んだ。伊那谷の風景とともに、そこに暮らす人々のあたたかさを終焉の懐として選んだ―と言ってもいいかもしれない。残された俳句などから、伊那の地にやってきたのは安政5年と言われる。当時、井月は37歳。18歳から江戸で学び、高い才識があったとされる井月は、伊那の地では身なりの汚い風体で漂泊の人生を最後まで貫いた。その生き方は、残された俳句や書とともに、今でも伊那の人々をとらえている。
今週のいなまいニューススタジオは、シリーズ道―土地の記憶。先週に続いて井月が歩いた道をたどる2回目は、駒ヶ根市東伊那。ここにも、前回の中沢と同様、井月が訪れた家が多く、今でも代々その親交の深さが語り継がれている。今週も、井月研究の第一人者として知られる春日愚良子(本名・公夫)さんをゲストに迎え、親交があった家々を訪ねながら、東伊那から火山峠を歩く。
次週、3回目は火山峠を越え、伊那市富県、美篶に向かう。

井月さんの句を歩きながら
武田 実際に歩いてみると、井月さんは、かなりの距離を歩いていたことがわかりますが、当時は、どんな格好で歩いていたんでしょう。
春日 日記などによれば、春から夏、秋にかけては草鞋やぞうりだったようですね。こんな句があります。『施顔(ひるがお)や切れぬ草鞋の薄くなる』。これは夏の句ですね。冬になると、雪駄を履いていたようです。石ころ道はまだいいですが、泥道は大変だったでしょう。そういう時は、井月さんは歩かなかったでしょう。歩く時は、泥が凍った時とか…。訪れた家で足袋をもらった、という記録もありますね。
武田 寒い季節には苦労したでしょう。
春日 冬には、こんな句もあります。『雪の丈歯のたけ下駄の小道かな』。下駄の歯の丈に雪が降った、という情景ですね。
武田 中沢、東伊那を歩いてきましたが、風景がずいぶん違う印象がありました。
春日 そうですね。東西に深い中沢の谷、南北に傾斜した東伊那の地形。それぞれに味わいがありますね。
武田 火山峠の芭蕉の松も、井月が旅の途中で見上げたと思うと、感慨深いものがあります。

東伊那馬場家。かつて造り酒屋を営み、屋号の米屋(よねや)の名で知られる。庭先に井月の句碑を建て、かつての親交の深さをうかがわせる。この句碑は、米屋の九代目当主、馬場行恕(ゆきのり)さん松代さん夫婦の金婚の祝いに建てられた。句碑に刻まれた井月の句は、馬場家に残されていた井月の自筆の書をもとにしたもの

左から武田キャスター、春日さん、馬場行恕さん、松代さん。馬場家には井月の書が多数大切に保管されている。
「身なりはぼろぼろで汚いので嫌われたところもあったようです。でも、書も句もすばらしいから、泊まっていくように言って、よく招いたと聞いていますね。井月さんのことは大変尊敬していたようです」(松代さん)
「この馬場家のように井月の書などを大事にされているところを見ると、井月に対する信頼、深い思いを代々持っていたことを感じますね。この家に残る井月の書を見ると、井月が若いころの書から晩年のものまで幅広いことがわかります。非常に長い間交流があったことがわかりますね」(春日さん)


中央アルプスを望む家の軒先では、サトイモの茎を加工した冬の保存食「イモガラ」を作る風景が。井月が訪れたころも、きっと同じ光景があちこちで見られただろう


東伊那の湯沢家。庭先には井月の句『積み込みし俵にぬくきしぐれかな』の句碑が建てられている。句碑は、湯沢家で建てたもの。代々、井月さんが訪れた話は伝えられ、井月さんへの愛着が感じられる

庭のイチョウの木は600年を超えると言われる中村家の前で(左から武田キャスター、中村裕國さん、春日さん)。中村家は、川奉行として地域をまとめ、井月もよく訪れた。
「今の言葉で言えばスポンサーのような役割だったと思います。井月が故郷の新潟に帰ることになった時、この家に上伊那全域から150人もの俳友が集まったと言われています」(中村さん)


東伊那から伊那市富県へ向かう途中に越える火山峠には、芭蕉の松と言われる松の古木があり、根元に芭蕉の句碑がある。井月は、火山峠を歩きながら、この芭蕉の松の下で一休みしたことだろう




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