2005年12月3日放送 

田中節さん

伊那谷農業の未来を考える

次代につなぎたい「農業」 恵みに囲まれた伊那谷で

山々はすっかり枯れ色になり、秋の実りをもたらした伊那谷の農耕地も冬の準備に入っている。伊那谷は、米、野菜、果樹、花と多くの種類の農作物栽培が可能な場所。水や土の恵みに囲まれた谷だ。しかし、日本全国の傾向と同じように、農業後継者不足や、遊休地の拡大など、農業の未来に課題は多い。また、平成19(2007)年度からは、現在個々の農家を対象にしている転作奨励金が一定規模以上の農家に限定されるなど、日本農業の施策も大きな転換期を迎えている。
今週のいなまいニューススタジオは、長年にわたり営農指導員として伊那谷各地で、また遠くモンゴルで農業にかかわってきた田中節さんをゲストに迎え、伊那谷農業の現状と未来について考える。

田中節さん
JA上伊那理事。農業振興センターアドバイザー。畜産指導員として伊那谷各地で指導経験を持つ。その経験を請われ、平成(1993)5年からJICA(国際協力機構)の派遣でモンゴルへ。木曽馬のルーツといわれるモンゴル馬の調査に携わった。モンゴル遊牧民との交流で、水の貴重さや自然の生態系の中で育まれるたくましい農業の在り方を再確認したという。
後継者不足など問題が山積する日本農業の現状を踏まえながら「最低限、いつでも農業を(特に水田を)再び始められるよう、機能を残しておくことが必要」と、農地やその周辺の水、水をもたらす山の保全にも力を注ぐ。最近では、近くの小学校で、子どもたちに農業の大切さを話す機会も作っている。「農業従事者だけの問題ではありません。余剰地を家庭菜園にしてもいいし、とにかく地元で採れたものを地元で消費することが基本です」。
昭和14(1939)年生まれ。伊那市西春近在住。

豊かな農業適地伊那谷
武田 田中さんは農業に携わって何年ぐらいになりますか。
田中 家は兼業農家でした。JAの営業指導員でしたから、それも含めれば約40年になります。
武田 伊那谷で主に作られている農作物といえば。
田中 売上高でいえば米が一番多いですね。次がキノコ(栽培)になります。そして、果樹、野菜、花、という順番になっています。
武田 日本全国の中でも、この伊那谷は非常に農業に適した土地柄と言えますか。
田中 そう思いますね。農業に携わっていると、そういう土地柄だという認識を持っています。ですが、伊那谷では、経営規模がそんなに大きくありませんから、生業として農業で成り立つかと言えば、難しい部分もあります。今の時代では農業も大きく変わってきました。
武田 大規模農業とも言われますが、日本全体で見ても、大規模にできる場所というのは限られているでしょうね。
田中 そうですね。伊那谷でも、特に上伊那は、天竜川沿岸の水田地帯や基盤整備を実施したところであれば、物理的には可能と言えますが、工夫しなければ難しいと思います。
武田 そういう意味では、これからの伊那谷の農業は、どのようにしていったら…。
田中 かつて、伊那谷で養蚕が盛んだったころ、養蚕農家が自分たちで工場を持って、付加価値を高めて生活費を稼いだという協同の精神がありました。その精神に学んで今に生かして、大規模農家も小規模農家も含めて、この豊かな土地を未来の子どもたちに残し、健全な農村社会を守っていきたいという気持ちは持ちつづけています。

モンゴル農業の教訓
武田 田中さんはモンゴルに何度も行かれているそうですが。
田中 木曽馬のルーツはモンゴル。伊那谷では馬刺しの食文化がありますね。昔このあたりで食べていたのは木曽馬の馬刺しでした。ですから、産業としてモンゴルの馬を日本に持って来ることはできないか、という調査に行っていました。モンゴル側にしてみれば、鉱物資源は限られていますから、自然生態系の中で家畜をお金に替えて外貨を稼がないと、長い目で見れば方法はないわけですから―。
武田 伊那谷のようには作物はできませんからね。
田中 そうですね。ですから、自分たち自慢のモンゴル馬を、外国の食文化に合わせて改善して輸出しようという考えだったわけです。そこで、技術支援ということで、JICA(国際協力機構)の派遣で10年ほど前、モンゴルに2年ほど滞在しました。
武田 モンゴルでは馬を食べる習慣はありますか。
田中 冬に食べますね。馬の油というのは融点が低いので、ナイフで切りやすいこともあります。日本でも昔から馬肉を食べると体が温まると言われていますが、モンゴルの遊牧民も馬肉は体を温める、ということで―。
武田 モンゴルと伊那谷を比較すると、本当に作物ができる土地、というのは、すごいことなんだと感じますよね。
田中 かつてソ連が支配していた時代、モンゴルでは春小麦を作っていました。国営農場ということでソ連製の大型機械で大規模に栽培してきましたが、採算が合わなくなって、現在では小麦を栽培していた場所がすっかり荒地になって…。そういう形で自然の生態系を無視した農業をやってしまうと、100年かかっても復活できないんじゃないかと思います。世界各地で同じようなことがありますよね。
武田 モンゴルではわずかな水を大事にしています。それに比べれば、伊那谷は本当に恵まれた環境だと感じます。

協同の精神に学びながら
武田 平成19年から農業に関する仕組みが大きく変わるそうですが。
田中 昭和47(1972)年から、個々の農家に転作奨励金が出されていました。それが、国際的な情勢や国の財政などが大きく変わってきて、ある一定規模以上の農業者以外には支援をしない、という方針を打ち出しています。特に上伊那は米地帯ですから、国の方針を踏まえながら、昔から村の中にある相互扶助の精神を生かして、なんとか自分たちの農地を守れるような組織化を進めていこうと取り組みをはじめたところです。
武田 そうした国の方針が進めば、荒れ放題になってしまう農地も増えてしまうかもしれない。それをどのようにして防ぐか、ということ。
田中 そうです。このままにしておくと、自給以外には農作物を作らない、という農家が増えてしまうのではないか、と感じています。それでなくても(農業従事者の)老齢化が進んでいますから。例えば、私が住んでいる伊那市西春近地区では、700戸余りの農家がありますが、70歳以上の農業従事者が33%を占めています。10年後を想定すると、間違いなく遊休地が増えてくる。待ったなし、という状況なんですね。
武田 モンゴルで春小麦を栽培した農地が荒地になってしまったように、水田でも放置しておけば大変なことに―。
田中 3年も経てば雑草が生え、それを回復するには大変なことです。
武田 今、日本は飽食の時代で、食は余っています。一方で、世界的には食糧危機の時代がやがてやってくる、と言われてもいます。日本は、先進国の中でもとりわけ自給率が低い国。このままでは大変ですよね。危機になった時、本当に困るのは、今の若い世代でしょう。その世代が農業に関心がないというのは、日本の将来を考えると非常に危機であると感じます。
田中 その通りだと思いますね。ただ、農業が生業として成り立つような、また、夢があるものでないと、なかなか難しいですね。そこは、今の私たちの世代が考えて作り上げていかないといけない、と感じています。
武田 伊那谷は、水が豊かで多くの農産物ができる土地柄。農業にとっては、未来がある土地柄のはず―。
田中 他の地域に負けないだけの資源を持っています。それから「結」(ゆい)という習慣もありました。例えば田植えをする時、1軒だけでは大変なので、数軒の農家が順番を決めて、皆で手伝い合って農作業をこなしていくんですね。それから、一番、日本の村社会の中で機能していたのは、水路の管理。皆が助け合って水を守ってきたんですね。今はほとんどの農家の人が勤めに出ていますから、農繁期に短時間で機械で間に合わせようと、個人でトラクターを購入してやっている。驚いたことに、西春近地区で426台のトラクターがありました。
武田 考えてみればもったいない話かもしれませんよね。狭い農地のために機械を―。
田中 それだけ機械を入れると、経営的には赤字。それでも、大事な農地は守っていこう、と考えた上での選択肢ですね。そのような経営単位についても、これから話し合っていこうと考えています。
武田 「蚕玉(こだま)さま」というのは―。
田中 竜水社という製糸会社が、この地域の養蚕を支えた時代がありました。西春近地区では嘉永3年からこの「蚕玉さま」という行事の記録が残っています。春、蚕がとれて売った後、地区の養蚕農家が集まって感謝するというもので、蚕を神様に仕立てて、気持ちを一つにしていったんですね。
武田 これからは、またそうした協同の精神を復活することも大切になってきますね。
田中 現代に合ったもので、復活していくということです。農家が集まって組織を作る、ということも一つの方法ですが、農業ができない人は持っている農地を安心して農地をまかせられるように、また、農家は助け合って続けていけるように、進めていかなければと思います。
武田 平成19年の転換期を前に、伊那谷という農業の宝庫を守っていく方法を、皆で考えていきたいですね。

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