| ―会社の実質的な責任者となることを引き受けた時の気持ちは |
| 昭和27年の4月のことですが、武井さん(故武井方介氏)の自宅で役員会を開いた折に「絶対に私が提案したことに対しては不服を言わない」ということを武井さんに念を押されたんですね。私は軽い気持ちで返事をしました。翌日、武井さんから電話で呼び出され(会社の実質的な運営を)引き受けてほしいと言われたんです。 |
| それぞれの人が職業を持つ。働く場所は職場なんです。職場をなくすことは企業として最もいけないことです。私が引き受けなければ、武井さんが社長を引き受けない、と言う。そういうことになれば、当時の社員38人、その人たちの職場がないわけです。当時、伊那にはあまり企業はありませんでした。私は今でも、あの時やめておくことが一番正しかった、と思うくらいなんですが…。 |
| それで、これは引き受けるしかない、という気持ちになった時に、下部温泉に来て、泊まって、次の日に身延山にお参りに来ました。そして、はっきりと決めたわけです。 |
| その後、皆さんに助けられて、なんとか会社も自分が責任者としてやってきて、格好がついたものですから、今から15年ぐらい前に家内と一緒にこの身延山にお礼参りにも来ました。私の一生を大きく方向づけましたね。 |
| 実は、私自身、電気の主任技術者3種の資格を持っています。ですが、今の会社は化学。私は、自分の思いを断ち切れずにいました。私は機械をやりたかった気持ちがずっとありましたから…。自分の好きな道に打ち込むことは、人間としての生きがいがあると思うんですね。ですが、引き受けたからには全力投球でやらなきゃいけませんから、私なりに母親と相談しながら決断して、今日まで来たわけなんです。 |
| ―昭和27年、身延山での決断がなければ今の大明化学はなかったかもしれませんね |
| そんなことはありませんが…誰かが替わってやったかもしれませんからね。私は常に、人間が救われるのは、同時に二つの道を歩くことはできないことだと思っているんです。ですから、あの時の決断が良かったか悪かったかは、永遠にわからないんです。 |
| ―下部温泉に泊まった夜、どんなことを思いましたか |
| 私が長野工業学校に進む時、母に「お前、銭で幸せは買えないんだよ」と言われたことがありました。社員の幸せを考えると、自分の意見ばかりを考えてはいけない、と思いましたね。ここがポイントです。 |
| とにかく、私が引き受けなければ、38人の職場がなくなるわけです。私が経営をしていた中でも、人員整理は一切してきませんでした。それと、もう一つ。常に本質というものを考えましたね。目的は何か、と。目的を果たすために手段はどうするか、と。目的と手段を取り違えないようにすることが私の経営哲学です。 |
| 下部の旅館で気持ちを決めましたから、翌日、身延山の階段を昇る時は、非常に穏やかな気持ちでした。 |
| ―決断をする時は常にお母さんの存在が |
| ありますね。母親と今でも一緒に生きている気持ちです。家庭の中でも母の話が出ない日は一日もありません。これは私自身、非常に幸せだと思っています。 |
| ―創立60周年を迎えたお気持ちは |
| 私は、一つの信念を持ってやってきました。信念を通すために、社員にも迷惑をかけたでしょうし、家内にも迷惑をかけたと思っています。信念を通すためには敵を作りますからね…。家内には頭が上がらないんです。特に、私の母を非常に大事にしてくれましたから。ありがたいと思っています。 |
| ―「後継者」についての考え方は |
| 一概には言えませんが、世襲した方がいい場合と、世襲して悪い場合がありますね。私は、昭和27年、事実上の経営の責任を負うことになった時に「私は、世襲はしません」と断言しました。 |
| 私は、世襲よりは社員を育てていく、という考え方でやっていきたいと。社是にも「人材を育成し、よき社会人を育む」とあります。後継者が社会を毒するようなことをしてはいけません。 |
| 私は人の顔かたちが違うように、その経営がいい、悪いということは言えないと思います。ですから、私が平成3(1991)年に社長を譲る時、私がやってきたことは全部ご破算にして、新社長の方針でやるように言いました。結局は、次の幡野社長も現在の宮澤社長も、それまでの方針を継ぐ形になっていますが…。本当は、その人の特徴があると同時に欠点がありますから、いいところだけを残そうと思うと惰性になってしまうんですね。 |
| 現在は、私は社長の相談役ということですから、社長が出張している時は会社に出ません。一つの私の考え方です。そういう私の考え方でやってきたことですが、それがいいか悪いかは、永遠にわからないでしょう。 |
| ―池上房男さんは、「奥さんに感謝している」とおっしゃっていました |
| 性格が正反対なんですね。主人は心配性ですが、私は「なんとかなるわよ」と言う方なので。なんとか夫婦として64年間、よくやってきたと思いますよ。 |
| この企業は、本当は私の父親がやっていた仕事なんですが、たまたま主人がやることになりました。そんなつもりではなかったでしょうが…。私とすれば、父親の仕事をやってもらって、本当にありがたかったと思います。主人は、本当は電気が専門で、機械もやりたかったと思いますが…。 |
| 私が小さいころから、東京の深川で父が化学の工場をやってきて、それを私はずっと見て育ってきました。ですから、どちらかといえば私の方が詳しかったんですよ。従業員を使うことなども、父をずっと見てきましたから。 |
| ―池上さんは、どんな経営者ですか |
| 厳しいですが、やさしいところもありますね。家に帰って来た時も「今朝は顔色が悪かったけれど、どうだった」と言ってくれたり…。ですが、企業に対しては厳しいところはありました。「そんなに言わなくても…」と思うこともありましたよ。確かに、ハラハラする時もありました。企業というのは難しいですから。 |
| ―昭和27年、身延山に池上さんが訪れたことは |
| 悩んで身延山へ来たことは知らなかったんです。(東京から帰るはずが)帰ってこないから、どうしたのかなあ、と思っていて。もう亡くなっていましたが、心の中には常に母親がいましたから、やはり母親に相談したいという気持ちがあったんでしょうね。ですから、身延山に来て、そして、それが一つの何かになったような気がします。母親もいつも離れずにいますが、身延山も心から離れない存在になっていると思います。 |
| ―大明化学の60年を振りかえって、どんな思いを |
| 私はただついてきただけですが、主人は大変だったと思います。主人は高遠町で生まれ、私の父は南箕輪村で生まれました。南箕輪には私の従兄弟などもいて力になってもらえましたが、主人の方が心細かったと思うんです。主人もよくがんばってきたと思います。感謝しています。 |
| 主人が帰ってくる時、靴の音でわかるんですね。トントントンと階段を上がってくる時はいいんですが、靴の音が重い時もあるんですよ。考えながら一つ一つ上がってくるような…。そういう時は「何かあったかな」と思ったり。それで、すぐにこぼすということはありませんでしたが、だんだんに「今日はこういうことがあったんだよ」と話すことがありました。 |
| 私は、小さい時から父の姿を見ていましたから「大変だな」と思ったり「がんばらなきゃね」と思ったりしてきましたね。 |
| 私も主人も、いつのまにかこの歳になってしまった、という感じです。毎日毎日が、忙しい中にも充実したものがあったんだと思います。歳ということは、その人その人の考え方ですから、歳ということは考えないんです。そんなに大変だとは思いませんし、私も主人も、与えられた仕事をがんばってやってきただけですから。これからも助け合いながら。 |