| 武田 |
結成当時は、どんなふうに。 |
| 松田 |
はじめは、歌や踊りが好きな信州大学の学生が各地で公演していました。なんとかプロになりたいと、秋田県にある「わらび座」に研修に行きました。当時、「わらび座」では、中国やベトナムなどへ公演して歩いていたんですね。そこでは、民族歌舞をとても大事にしている。特に地方に行くと、小さな歌舞団がたくさんある。それで、日本に帰ってきて「日本もそうしよう。各県に一つずつ歌舞団をつくっていこう」と。それで、長野県に、ということになったわけです。 |
| 武田 |
結成された昭和39(1964)年当時、若者たちは西洋音楽に向かっていた時代ですね。そちらへ行かずに、伝統、地元のものに目を向けるというのは、とても勇気が必要だったように思います。 |
| 松田 |
一方では、民俗意識が高揚した時期でもありましたから、日本の古くからの伝統芸能を大事にしていこう、という気運もありました。 |
| 武田 |
特に伊那谷、下伊那地域は民俗芸能が盛んですね。これはやはり、農業とともに大切にされてきたんでしょうね。 |
| 松田 |
そうですね。やはり田植えをやる時には田植え歌、草刈りする時には草刈り歌―というように、労働や暮らしとともに芸能があったわけですよね。 |
| 武田 |
そういう芸能を残そうと、田楽座に若者が集まったというのは、大きなことですね。 |
| 松田 |
当時は、農村から都会へ、都会へと若者が流れていった時代です。そんな中で、「本当はこっちのほうが大事なんだ」と論議したことを覚えていますね。 |
| 武田 |
始める時は、誰かに教わらなければなりません。どんなふうに。 |
| 松田 |
私自身は大町市の出身ですから、田楽座に入る前に地元の祭りで笛を吹いたりはしていました。それと歌が好きで、合唱団に入って歌ったりもしていました。ところが田楽座に入ってみると、途端に「民謡発声は違う」と言われたわけです。そう言われても、教えてくれる人はいませんから、裏山に登って発声を練習したりしました。一番勉強になったのは、東北へ勉強に行ったことですね。民謡教室にお世話になったりしながら、これだ、というものをつかんでいったわけです。 |
| 武田 |
ほかに笛や太鼓、踊りもありますね。やはり全国の祭りを取材して―。 |
| 松田 |
そうですね。どこかの芸能がいいよ―と聞けば皆で出かけて、手取り足取り教えていただいて。芸能だけでなくて、その芸能が発生した土地、自然の状態、歴史なども学んでくるわけですね。 |
| 武田 |
「田楽座」の活動が始まったころ、公演は順調でしたか。 |
| 松田 |
大変でした。名前すら知られていませんから、中には「おでんの講習会やるのかぇ」と言われたり…。ある時、阿智村へ出かけた時、田植えをしている皆さんに「○時から公民館の前でやるから見に来て」と呼びかけたところ、泥足でやってきてくれ、田んぼのあぜ道に腰かけて見てくれたこと。今も忘れません。そういうことをずっとやってきましたね。10年ぐらいしてようやく軌道にのったでしょうか…。 |
| 武田 |
例えば、松田さんは一人で何種類ぐらいを。 |
| 松田 |
笛、尺八、歌、踊り…。 |
| 武田 |
ほかの皆さんも、何種類もの楽器や踊りを。 |
| 松田 |
そうですね。だいたい4種類ぐらいはやりますね。田楽座に入ると1年の研修期間がありますから、その間に基本的な歌、踊り、体づくりなどを学んでいきます。現在の座員は13人、そのうち演技者は9人です。 |
| 武田 |
この40年間、田楽座から巣立っていった仲間たちも、たくさんいるでしょう。 |
| 松田 |
そうですね。各地で、それぞれがんばってくれているので、うれしいですね。 |
| 武田 |
舞台の出し物も、この40年間で変わってきましたか。 |
| 松田 |
最初は「わらび座」で研修を受けたこともあって東北の芸能が多かったですが、そのうちに長野県内を歩いて、長野県の芸能を取り入れるようになりました。県内を回っていると、歌や踊りだけでなく、芝居をやってくれ―という声もあるんですね。長野県は特に地芝居や歌舞伎、文楽などがあって、昔から芝居が好きだったんでしょうね。本格的な芝居をやったこともあります。また、田吾作バンドと名づけてバンド演奏をやった時期もありました。いろいろやってきましたが、根っこには民俗芸能をすえてやってきたなあと今思いますね。 |