2003年11月22日放送 

古田人形芝居保存会会長 唐澤千洋さん

古田人形芝居は今 受け継がれる芸とこころ

豊かさはここにある 人形芝居の魅力を伝えたい

伊那谷には、狭い谷、小さい村々のあちらこちらに古くから芸能が伝えられている。後継者不足などから衰退の途をたどった芸能も数ある中で、箕輪町の古田人形芝居は、後継者をはぐくみ、今では小学生の中にも浸透しつつある。
幼年時代だけでなく、大人たちの間でも心の豊かさが求められる現代。江戸時代から伝えられる芸能にそれを見つけ、育てている人形芝居に、〈豊かさ〉への道が確かにつながっているようだ。
今回のいなまいニューススタジオは、12月6日に今年の千秋楽公演をひかえた古田人形芝居保存会の唐澤千洋会長をゲストに迎え、人形芝居の魅力、そしてこれからについて聞いた。

古田人形芝居保存会
18歳から80歳まで25人の会員が、箕輪町上古田の公民館で毎週練習を重ね、伝統の技を磨き、伝承している。江戸時代から大切に伝えられている人形は、修復を繰り返しながら、現在も使用。中には、約300年前のものもある。
人形芝居を構成するのは、人形を操る人形遣い、太夫(浄瑠璃の語り手)、三味線の3つの役割。人形遣いは、人形の頭(かしら)と右手を担当する主遣い(おもづかい)、左手を担当する左遣い、足を担当する足遣いと、基本的には3人で動かす。三味線は、太棹が使われ、「低い音、幅のある音がでます。それがドラマの表情、抑揚をつけていきます」(唐澤さん)。

古田人形芝居280年の歴史
武田 古田人形の歴史はどのぐらい。
唐澤 素人ごしらえの人形で人形芝居のまね事をしたという記録が残っています。その時代から数えると約280年です。大阪、江戸、名古屋といった大都市で非常に盛んだった人形芝居が、歌舞伎の勢いに押されて、お客さんをなくしていくわけです。江戸の大火で劇場が焼けてしまい、大阪にやってきた人形遣いの人々…。そういうところで、生活をかけて芝居をしていたんですが、お客さんがなくなって、地方巡業に出て行くことになる。ところが、淡路島や四国、徳島の人形座の皆さんも同じ歴史をたどるわけです。その中で、時代遅れで、地方は人形がはやりはじめていました。ちょうど、地方巡業に来た皆さんを師匠として迎え入れるようなかたちになった。長野県の中で伊那谷に、30以上の人形座があった時代があります。地方に流れた人形遣いたちに、家を与え、土地を与えて、師匠として抱きかかえる経済力もあったと思います。
武田 江戸時代末期から現在まで、大変なこともあったのでは。
唐澤 そうですね。明治になると、政府はこうした興行に対して鑑札税をかけました。ご祝儀がたくさん入らない興行ではやっていけなくなり、やる人も少なくなり、新しい人形を買い求めることもできない…。そういう中で、今は伊那谷に4座だけが残っているというわけです。
武田 古田人形の魅力はどんなところに。
唐澤 日本の三大古典芸能と言われる能、人形浄瑠璃、歌舞伎。大都会でプロの役者さんや人形遣いの人がやるものにあこがれて、伊那谷で、それを自分たちのものにしようとした情熱に感銘を受けますね。それと、やはり芝居の中身。人情とか、情念の世界、ご法度であった当時の思いを、ドラマの中から自分のものに移し変えて芝居をしていたんじゃないか…そういう300年近い当時のものが今、全く同じかたちで日本人に愛される。その文学性にも、たえられない気持ちを。

保存会の練習風景。この夜の練習演目は「生写朝顔話四段目」。一体の人形にそれぞれ3人の人形遣いがつき、人形にいきいきとした表情を与える。写真左:右端で人形を操るのが唐澤さん

後継者を育てたい
武田 唐澤さんが古田人形をやるようになったきっかけは。
唐澤 高校時代、郷土史のクラブで、先生から地元の文化である古田人形を展示・発表したらどうかという話がありまして…。祖父も父も、保存会の会長をしていたという家庭環境もあります。
武田 小さいころから古田人形に接していたということですね。
唐澤 ただ、自分が人形を操るとか、このことにかかわるというところまで思ったことはありませんでした。たまたま、父は口下手で、いろんな方が人形のことについて調査研究に訪れると、その相手役が私、というようなかたちになって…。それから、そのころ人数が7、8人になってしまいまして、手伝いをしないといけない…という感じで、いつのまにか。
武田 小さいころから、おじいさんやお父さんのものを見ていて、古田人形については、かなりのものを吸収されていたということですね。
唐澤 門前の小僧習わぬ経を読む―というようなことで。代表的な作品の一節ぐらいは小さなころからまねをして困ったと、よく母から聞きましたね。
武田 おじいさんもお父さんも、人形遣いや三味線を。
唐澤 祖父は一人息子で、20歳の時には太夫でした。特に飯田地方では歌舞伎が盛んだったので、飯田地方で指導していたようです。現在の東京で有名な歌舞伎役者の皆さんと一緒に公演をしていたような人で、芝居一代という人生だったようです。私が小学校1年の時に祖父が亡くなりましたので、祖父の声をかすかに覚えている程度ですが―。
武田 お父さんはどんな。
唐澤 やはり人形遣いでした。女の人形を操るほうが多かったようですね。
武田 男性と女性では、手の表情など違いますからね。
唐澤 私も、なんとなく女性の人形が多くなってきましたね。
武田 唐澤さんが古田人形芝居を復活させる時には、師匠はたくさんいらっしゃったんですか。
唐澤 師匠らしい人は一人しかいませんでした。
武田 ということは、唐澤さんのおじいさんや、お父さんの思い入れのようなものが中心で、保存会が復活したということ。
唐澤 浄瑠璃の声を記録した録音テープぐらいしかなく、手本がないということで、結局は、東京や大阪の師匠に頼らざるを得ないということでした。
武田 それは昭和何年ごろですか。
唐澤 昭和55(1980)年ごろからですね。伊那谷の4つの人形座が同じ悩みを持っていましたので、年に1度、合同で公演をして、発表会で互いの技を競い合ったわけです。しかし、それでは後継者が育たないということで、三味線、太夫、操り、三部門の稽古(けいこ)を合同でやることになりました。経費もないわけですから…。それで、伊那人形芝居保存協議会という組織をつくって、今日もそうした稽古を続けています。

古田人形芝居が保存している「八百屋お七」

日本文化に触れてはぐくむこころ
武田 中学でもやっているそうですね。
唐澤 中学生は、昭和54年にクラブができて、今年で25年になります。きっかけは、何か中学生の気持ちの中に空洞ができてしまうような時期があり、そういうものをどうしようかという中で、体を動かしながら何かに触れる―という提案が先生方からありました。子どもたちは、人形に触れて、やっているうちにドラマの中身がわかってくる、技も上がってくる。そうして、25年、絶えず中学校で存続してきました。それを見た小学生が、やってみようということになり、平成4(1992)年に地元の小学校にもクラブができました。
武田 当時やっていた皆さんで今もやっている人も多いのでは。
唐澤 今の保存会の中核は、中学校で始めた2代目、3代目のころの皆さんです。その皆さんがなかったら、今の古田人形芝居の保存会はなかったというぐらいに。ですから、後継者の育成が、中学校の時点でできた、ということですね。
武田 言葉は昔の言葉ですよね。子どもたちが習うといっても、大変なのでは。
唐澤 芝居の稽古に入る前に、芝居の中身、役柄の立場などについて勉強して、台本も、現代の字で作って―。特に小学生の場合は、現代劇に作り替えて、現代劇として教えています。まず、人形に触れること、慣れることから、ということで。そして、中学の段階で本来の人形浄瑠璃に入ってもらう、というような階段をのぼって。私たちとしては、人形芝居に直接かかわる保存会だけでなく、観ていただく方もいないとだめですし、資金的な協力をいただける方も必要。幸い、そういう皆さんに恵まれてよかったなと。古田人形芝居を町の宝として理解いただいていることが、本当にありがたいと思っています。
武田 これから、どんなふうにやっていきたいと。
唐澤 後継者対策が一番だと思いますので、100人に1人、100人に2人―という厳しい状況だとは思いますが、そういった中で、大事にしていきたいですね。そういう人を一人でも増やすために、外国の音楽や踊りだけでなく、日本の民謡や踊りなど、日本のものになじんでもらいながら、人形浄瑠璃を理解していただけたらいいな、と思っています。
武田 特に今、殺伐とした世の中になっていますから、この情の世界を、もう一度、小さい子どもたちにもわかってもらえたらいいですね。
唐澤 そうですね。日本固有のこうした文化に、本当の心の豊かさがある。そういう本物志向になってほしいなと思いますね。

【古田人形芝居】
箕輪町上古田を中心として伝承される人形芝居。安永年間(1772〜1780)、村に人形遣いが落ち着き、盛んになったといわれる。明治になって鑑札制度などによって低迷の時期が続いた後、大正13(1924)年に上古田に保存組織ができ、戦後、古田人形芝居として活動を活発化させてきた。昭和54(1979)年、箕輪中学校にクラブが発足、平成5(1993)年には古田人形芝居振興協力会が発足。人的にも経済的にも支える体制が整う中、ヨーロッパ公演も成功させている。
12月6日には、箕輪町文化センターで小学生、中学生、保存会による1年間の千秋楽公演がある。


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